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北アルプス 靖子平と前穂高岳

― なき友に花束をたむけて、それぞれに語らう友との思い出 ―

未明に自宅をでるが、激しい雷雨のため湾岸道路は川のようである。四駆にギアを入れ替え20kmで走るありさま。Nobさん、MIKIさんをピックアップして、中央高速に入るころには雨も小降りとなり、信州に入るとさわやかな初夏の青空となる。

河童橋にて上高地につき河童橋を越え、梓川のほとり、4年前の事故当日午後、無念の思いでコブ沢を見上げた場所にて、再び岳沢を見上げる。あの日と同様、今日も晴れわたり穂高の峰、コブ尾根、コブ沢が姿をあらわしている。滑落した平島さんを発見した場所は、雪渓がきれ滝となっている。その日も雪渓が痩せシュルンドが広がっていた。

 4年前の感情<晴れた素晴らしい日なのに、目に映るもの耳に聞こえるものが、氷ついたような無機物のような映像のような>に襲われる。一気に4年前に心がもどってしまう。

 岳沢に入り、足が何故か速くなってしまう。風穴で一休みして、やっと普通のペースになる。明神5峰の南西尾根の末端を越え、西穂沢が見えるころMIKIさんは、そこで遭難したMさんのことを話し始める。
ヒュッテに着き荷物の整理もそこそこに、靖子平に向かう。

コブ沢出合の靖子平にて
 目印の大岩から雪渓を登るがケルンは壊れ、ケルン基礎の岩は雪の下らしい。新しいケルンをNobさん、MIKIさんと積みなおす。ケルンの前にNobさんが持ってきた花、平島さんが好きだった紫の色、をかざる。そして、MIKIさんがもってきた線香に火をつけ、代わる代わる祈る。私がもってきた、平島さんの好きだった日本酒を、ケルンに注ぎ4人で飲む。

 コブ沢に向かって、「平島さーん!」と3人で声をかける。MIKIさんは西穂に向かって「平島さーん、木村さーん!Mさーん!」と声をかける。

 その夜、小屋で平島さんや、MIKIさんのパートナーで谷川で逝った木村さんの話をする。平島さんの事故については、4年前に自分としての見解を報告書その2に述べた。木村さんの事故については現場にいなかったこともあり、見解をもっていなかった。

 しかし、4年の歳月がたち、あることがぼんやりと浮かびあがってきた。それは、人間の心や身体は機械でない、ということである。決して、心や身体を無闇に追い込んではならないのではないだろうか。ぼくは、あるとき、車の後席に乗り込むとき、身体を右に軽くひねっただけで左足のひざの力がぬけた。あるとき、簡単なロープワークができなくなった。いずれも、疲れが蓄積しているときである。平島さんの滑落は雪渓が緩やかになり一休みした後で起こった。木村さんの事故はなんでもない懸垂下降中である。二人とも、どうだったのであろうか?

 事故の前日、平島さんはテントの奥に座って「これからフリークライミングとハイキングよ!」と話していた。
 木村さんは、岳樺クラブに移った直後の事故であった。二人とも自分の山行スタイルを少し変えようと心の中で考えていたのではないか?

 翌日も天気に恵まれのんびりと前穂に向かう。3時間余でピークに着く。前回6年前、平島さん、Nobさんときた時、5月の初めだが、雪がちらついていた。平島さんにとっては3度目の前穂だった。前穂沢、奥明神沢を、スタンディングアックスビレイで、えんえんと下ったことを思いだす。

alt="コブ尾根をバックに(重太郎新道にて)" /> 重太郎新道を下りヒュッテで一休みした後、靖子平のケルンに向かう。また、来るからねー!と3人で呼びかける。ぼくは、手を合わせてケルンに祈ったけど、「またね!いつかそのうち会えるからね!」と話かけた。ぼくは、心と身体の声に耳を傾け、山行スタイルを変化させようと思っている。優しい易しい方向に。フリークライミングでは、少しばかり、より困難を追求するけれど。

 穂高は、若き日の山であるとともに、平島さんと岳樺の山である。いつか穂高にコブ尾根にもどってこなければならない。あの滝のところに、紫の花をかざらなければならない。

・・・・・・
 前穂から帰ってしばらくしてから、木村さんに会いに出かけた。この日も、何故か、梅雨にもかかわらず、よく晴れた。10日ほど前に来た人がかざった花に、新しい花をくわえた。木村さんの気持ちを考え、新しい花のなかに、バラの花二本をいれた。「お元気ですか、みんなそれぞれ元気ですよ!そのうち、お会いしましょう」と話かけた。

 久しぶりに二人と話した後、ぼくの気持ちも落ち着き、いろいろ考えてみた。ぼくは、若き日の10年、再開してからの8年で、いくつかの山行スタイルを身につけた。どれもが、ぼくにとって、なくてはならないものである。地図の空白地域での山旅も、岩と雪のアルパインクライミングも、フリークライミングも。社会人山岳会とは対極の世界で、ぼくは山をはじめたが、若い時から上田哲農、古川純一、松本龍雄のような生き方に心を動かされた。氷河に消えた上田哲農のように市井のアルピニストとして、生きて動ける時に、岩、雪、山、自然を気持ちも新たに求めてみようかと考えている。(記 錦少年)



 6月13日は忘れもしない木村さんの命日です。そして、岳樺代表竜(少年)さんと最初にお話した日です。

 木村さんと同じ会に所属していた私は、それまで短期間ではありますが何回か山行を一緒にして、木村さんはハニカミ屋で物静かな中に山に対する熱い情熱があり、充実した時間をおくっていました。

 木村さんの事故があった年(H12年)の3月に西穂で会のMさんが事故に遭い、会としての対応などがあり、木村さんは会を去りました。それは、いかに満足に山を楽しむかを限られた時間に賭けている木村さんにとっては、自然のことように思われました。そして、木村さんは岳樺に入りました。「岳樺は同じ年代だし、いい会だよ」と木村さんは誘ってくれましたが、まだMさんの捜索もあり、すぐには動けませんでした。置いてきぼりの状態でした。

 梅雨なのに良く晴れた日曜日、前の会のメンバー2人と一ノ倉沢を登攀中、元気なそして岩に取り付くと木村さんの独特の高揚した声で、私に携帯から電話がありました。
 それなのに、数時間後会から木村さんの事故の連絡。まったく信じられない状況に落ち着かない夜を過ごしました。翌月曜日、一人で沼田にいくはずでしたが、不安な私の様子を察したのか竜さんは、「津田沼で待ち合わせしましょう」と言って下さいました。駅で竜さんは、ドキドキしている私を優しく包み込むような目で迎えてくれました。

 途中、Nobさん、遊さん、錦(少年)さんと合流して、初対面の紳士達の中にすっかりおさまった形で、私はいつもの自分を取り戻す元気が少し出てきました。

 斎場ではパーティーを組んだ二人がやりきれない様子でたたずんでいました。寂しい木村さんとのお別れでした。

 当時の私は、山を始めてからぼろぼろだった体と心が癒され楽しくなっていた時期でしたが、相次いでの事故で経験のないことだけに、非常に理解しがたい状態でした。

 木村さんのお別れ会・家族との追悼山行・追悼文集作成と一区切りつくまで、岳樺のみなさんと交流しながらクライミングや山を楽しんでいるうちに涙が笑顔に変わってきている自分に驚いていました。そして、岳樺の中で本当に大きな存在の平島さんがいたからこそ、大人の会に育っていったのかと思いました。

 平島さんの報告集はあれだけのものをつくるにあたってはどんなに辛かったかが、思いしらされる作品であり、平島さんに対する愛情があふれた立派なものです。平島さんの事故で、事故は二度と絶対起こしてはいけないと、技術的な指導も慎重に覚えの悪い私に根気よく教えてくれました。それは、事故現場に関わってきた者だけにしか解からない心の叫びが伝わってくるほどでした。だから、平島さんとは一度も山に行くことはありませんでしたが、岳樺以外の方で平島さんを知っていた方からその後のご家族の様子や平島さんのトレーニングの話を聞くうちに、どこかでお会いしたことがあるのではないかと思っていました。

 いつか、機会があれば平島さんの所に行ってお話したいとずっと思っていたのです。今回、やっとその時がきました。

 平島さんのケルン整備の日はさまざまな思いをもって出かけた二日間でした。あまり眠れないまま起きたら大雨、雷。なぜか、6月の第2週は晴れてくれるような気がしました。錦さんの新車で中央高速を走る内に天気は回復し、沢渡につくと真夏のような暑さでした。

 上高地は観光客で一杯でした。Nobさんが背中のザックにつけた大きな花束は人々の視線を捉えました。岳沢ヒュッテに向かう途中、Mさんの事故現場が見えるケルンを積んだ付近で合掌しました。Mさんは事故後しばらくたっても発見されず、交代で捜索にいったのです。私は息子さん二人も加わった仲間と寒くてガタガタ震えながら時折ガスが切れるとすぐに双眼鏡を出し、祈る気持ちでどこにいるかを探したことを思いだしたのです。2回目は追悼山行。そして、今回の山行。足取りは重かった。

何度も訪れた前穂高山頂にて
 平島さんのケルンを錦さん、Nobさんが懸命に探しましたが、残念なことに雪の中でした。でも、そこは眼下に広がる梓川が流れる上高地の素晴らしい眺めを望め、Nobさんが2回きたことがあるという気持ちがわかりました。錦さんもいろいろ感情があふれていることがつたわってきました。木村さんのお墓に奥様が依頼して彫られた一ノ倉のレリーフを見るといまだ現場にいけない私は落ち着くのです。それぞれがきっと同じ気持ちをもたせてくれているのです。竜さんもこの場に絶対いたかったに違いありません。

 3人で立派なケルンをつくりました。錦さんは平島さんが好きだった日本酒一升を、Nobさんは平島さんが大好きだった紫系の特注の花束を担ぎあげたのです。思いを込めた品でした。二人は、竜さんの分も込めて大きな声で平島さんの名前を呼びました。私も3人の名前を呼びました。
その夜、小屋は静かでした。最初、小川山で私がヤスコさん(木村婦人)と言った途端竜さんの目に涙で、まだ傷が癒えてないことを知りました。そのころから比べると、本当に竜さんは元気になられて良かったと思います。

 翌日も天気は予報に反していい状態。思いがけず前穂に登頂できました。きっと、天国にいる3人が手をつないで、私たち3人を見守っているのだろうと思いました。
 下山する前もう一度ケルンに寄りました。あの現場に向かって再度名前を呼びました。平島さんのご主人も行きたがっていた現場は急で危険なため、あれからそばには行ってないということですが、2人の友は、いつかはあのコブ尾根の稜線に行きたいという意思を表していました。

 山はさまざまな悲しいことを起こしてくれました。残されたものは、決して忘れることができない悲しみを心の中に抱え、信じていたものに裏切られた山の存在が怖くなり避けたくなってしまいます。しかし、時が流れるにしたがって離れ離れになっていた友も自分なりの山行をしていると聞くようになったこの頃では、やはり誰もが戻ってくる場なのだと思います。

 平島さんと木村さんはどの山行に行ってもなんだかいつも一緒のような気がします。テントの中でそそっかしい私に平島さんはキチンと正座して、「MIKIさん」とヤンワリたしなめるように話しかけ、木村さんはその様子を楽しげに見ているのです。

出会いの大きさと、人とのつながりの魅力に私は感謝しています。(記 MIKI)

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